これは、脳梗塞傷病前の元気に動き回っていた時の記録。現在は京都もインバウンドで京都らしさを失い、脳梗塞後遺症で左半身が不自由になった、あれだけ歩くことが好きだった自分が懐かしい。幸運にも今はプログラムは組めるし、食事、おしゃべり等はこなせるが、歩くのがどうしても遅いし疲れる。また旅行ができるようにを目標にリハビリ頑張っています。
伊藤若神は江戸時代中期の画家であった。絵そのものの持つ異能さは、この人が画家となる以前は京都の錦市場の青物問屋の主人として普通の市井の庶民の中に混じって暮らしていたという点でもその他の画人とは大いに異なっていた。
「なんでも鑑定団」でも珠には耳にする伊藤若冲という画家の展覧会があるとは鉄道の駅のポスターで知っていたのだが、前日の夜中のテレビで放送された紹介番組を観たことが直接の動機である。
兎に角行ってみよう。翌朝十時に阪急の河原町駅に降りたものの、相国寺(しょうこくじ)の承天閣(じょうてんかく)美術館が何処にあるのか知っていないことに気が付き改札口を守る駅員に聞いてみいると「阪急で烏丸まで乗ってそこから地下鉄に乗り換え今出川で降りてください」ということで、相国寺はその付近だという。
JRでもそうだが、阪急でも女性の鉄道関係者が増えたもんだと思う。こんな事にも好感を抱くような年齢になったのだろうか。
さて今日は日頃の運動不足の解消も兼ねて歩くことにももう一つの主眼があるので、本当に雲ひとつ無い晴天の下、勝手知った街を歩き始めた。
寺町筋を遡ると本能寺の脇を通り過ぎる所で案内板に目がとまった。
四百年も前に織田長が最期を遂げた寺であるが、秀吉の命により引っ越してきてそれ以来この地にあると言う。この寺だけではなく、秀吉は多くの寺をこの寺町筋に引越しさせていた。何と言う人だ、秀吉は、とふと想う。
寺町筋は御所の東側を南北方向に通る筋のひとつで、お寺の他にも骨董店や古本屋、画廊なども並んでいて落ち着きを感じる通りである。
河原町より悪くないその通りの途中で藤原定家の〇〇亭跡という小さな碑に気が付いた。
古今和歌集のあの人、覚えている和歌の一首なりと浮かぶ知性も持ち合わせていない無教養な男に気を悪くしたに違いない。
ただ当人は清々しい5月の空の下を気ままに歩いている訳なので頗る足元軽く機嫌もよく、すぐにも所の南東角に辿り着いた。
少し上がれば御所の門がある。京都人が上がると言うと北の方向へ向かうということで、逆に下がるとは南の方向に向かうことになる。
大阪人が上がるというと相場の値段が上がるということで、江戸時代ならば米相場で今ならばヘラクレスの新興株価が上がることを意味する。
おっと、どこからか大きな野が飛んできているようだ。
上がるとは阪神タイガースの順位があがること、下がるとはその逆だとのことで、そういう意見も耳にすることはある。
さてその寺町丸太町の角から門までの間にはこれも案内板で知ったことだが新島襄の旧邸が存在する。
言うまでも無く新島襄は福沢諭吉と同じように明治初期に大学教育を始めたクリスチャンの教育家で、福沢諭吉はお札になるほど有名であるがこちらは円札に刷り込まれる程には全国的な知名度はもってはいない。
だがここ京都では同志社を知らない人はいない。
これから向かおうとしている相国寺の門前一帯には同志社の大学や高校などの構内が広がっていて、広大な敷地を専有していることからも解ることだろう。
幼稚園から大学まで多くの人がお世話になっている阪急河原町駅からまだ30分も歩いていないというのに、織田信長、藤原定家、新島襄と人もの歴史上の人物に出くわしたことになる。
この歴史の厚みには、そこに住む者に誇りを持たせ旅行者には感激をもたらすような強い磁場が存在する。この磁場の中に一度身を置けば、身の回りの騒動から一歩退いて虚心に歴史を振り返り、先人の足跡を辿ってみれば何かに心打たれ、これから進むべき道がはっきりと認識されるようになるのではないだろうか。
私一人に限らず日本の国の来し方とその行く末に想い巡らすことになるのも当然だろうと思う。
長い平和な時期と多くの戦乱をも乗り越えて、多数の文化的な遺産と無形な文化を保存し続けた街を熱心に保存と修復に努めなければ、やがて人間の欲望の果てに跡形も無く破壊され尽くすであろうことは容易に想像がつくのである。
以前鴨川にパリの橋をそのまま再現しようという建設計画が存在し、それに対して市民運動が沸き起こり漸く計画を放棄させたとことは未だに記憶には新しいが、京都の町衆が本来持っている美意識を捨てないように願う限りだ。
京都御所の周囲に取り囲む。白壁の塀の美しさ、一歩門より中に入れば玉砂利の敷き詰められた広い道、大きな木々と比較的低い紅葉などの木に茂る緑、都会の真っ只中にこんな空間があったのか、日々都会のビルと自宅マンションを往復するだけの身には羨ましくなる環境である。
そこには開け放たれた空間があった。頭の上には東にも西にも北にも南にも建築物に遮られる事無く果てしなく空か続き、木々では鳥が囀る。こんな空間に身を置くだけで幸せを感じるが、これは強く統制された美しさからもたらされたものであろうと思う。
上へと伸びようとする本能を抑え、現在の美意識を保存し次の世代に伝えようという強い意志力がその根源にある。そして私たちが目にするものは低く広がる美しさである。
烏丸今出川の方向へ玉砂利の道を一歩一歩進みながら、思うのである。高い建物は京都には似合わないなあ、と。
烏丸今出川の交差点から目指す相国寺へは今出川通りの同志社の間の道を行くか、烏丸通りから東へ入り込むかの二つの通路が存在する。寺の正面に当たる総門に通ずるのは同志社の間の道路だがこれはまるで私道負担の通過道のようで、京都五山の第二位の名刹としては寂しいエントランスだ。
私は烏丸今出川の交差点から少し上がった同志社の校舎が途切れた所から東へ入り込み、相国寺の西門から境内に入った。門を入ると左手直ぐに瑞春院という末寺があり、水上勉氏が嘗て小僧として修行をしたとのことだが、水上勉氏本人はつらい思い出がいっぱいであったようである。やがてこの寺を脱走している。
同氏の直木賞受賞作「雁の寺」として登場することから瑞春院の別名が「雁の寺」となった。
建物には禅宗らしさが漂っている。
今年の年初、建仁寺を訪れた時の印象を思い起こした。説明し難い空気が感じられる。これは後でゆっくり考えることにしよう。
ゆったりと配置された堂字の間の敷石を人の流れに沿いつつ歩めば、やがて若沖展の会場の承天閣美術館に辿り着いた。
月曜日の午前11時前だというのに3つある入場券売り場には結構な列が出来ている。殆どの人が1500円の券を買い求めていたが、身障者手帳を出していた人が一人いただけで前売り券を持ってきた人はいなかった。
私も千円札2枚を差し出して1500円の当日券を求めた。なぜか私の2枚の千円札が風に吹かれて遠くに飛んで行ってしまったのを、慌てて取り押さえに行った売り子の女性に悪いことをしてしまったような気がしたが、これを書きつつこんなどうでも良いことを急に思い出した。
この入場券売り場から美術館の入り口までかなりの長い通路を歩かせられる。折れ曲がった通路の角には上下黒スーツ姿の男、そこの角にはこれまた上下黒スーツ姿の女、お次は男、券のもぎり係りは女と、ホストとホステスがお出迎えしてくれる。
できればホステスだけにして欲しいが、今日の来客の顔ぶれではホスト系の方が必要なのだろう。今日の来場予想は女性が多いと読んだ結果に違いない。
確かに私の周りの入場者は男よりも女性の方が多く、しかも若くない女性に含まれるという判定に合致する女性が多いのだ。
もぎり嬢とカウント嬢(入場者数を数える係り)の笑顔に迎えられつつ、ようやく一番目目の展示会場に入場を果たすことができた。
順路に沿って進まないと見落としてしまったり逆流して前に進めなかったりするので、この道順に沿って進むことにする。だが人が多すぎる。
前にも後ろにも右にも左にも人に取り囲まれ、人で埋まっている。
美術展で多数の美術品を観るという行為は存外体力と気力を消耗するものなのだが、こんなに人に囲まれては鑑賞に集中できない上に疲れ果てるのでないかと懸念されるのである。
また作品を観る適切な距離という問題もある。この状況で作品に没入する程に入り込むことは難しいだろうと思う。
さらに私個人の問題として昨晩は2時間程しか寝ていないので、普段よりも注意力は散漫なはずなのだ。人に煩わされないためにまずは前面のガラスの間近まで近づこう。ということで、最良のポジションを確保する。
実際の所もっと近づいて細部を観たいと思うのだがこれがすれすれの所で、危うくガラス面に脂性の肌から滲み出たイチゴ模様の鼻の跡を残しそうになった。
細かく筆の跡をなぞるように視線を滑らせ、手には筆を持ったイメージを抱きつつ作品をなめまわしてみた。
何枚か同じ具合になぞってみると、何か判った気がした。筆の運びにも随分と勢いもあり、作り手の若さや活力が感じられる。中には宮本武蔵の水墨画を連想させるものもあった。
ただ水墨画の世界は次の展示室の色絵で展開されるような、らしさは押し隠されている。展示室はふた部屋に分かれ、第一の部屋は主に鹿苑寺(金閣寺)の大書院の襖絵が並び、主に水墨画の世界が展開されている。
第二の部屋には嘗ては相国寺の所有していた三十枚の色絵と現在も相国寺に保管されている釈迦三尊像の三枚の軸、計三十三枚の軸が部屋の三面の壁を取り囲むように配置されている。
これらの色絵は兄弟のような関係で、明治二十二年に別れて以来このように並べられるのは百二十年振りなのだそうだ。
三十枚の動植物の色絵(動植綵絵)は宮内庁の三の丸尚蔵館からの貸し出しである。
だからどうだという異論もあるだろうが、確かにそうで、左右に配置された動植物を主題にした三十枚の軸が真中に位置する釈迦三尊を引き立てたり護ったりするために存在するものでも無さそうである。共通点と言えば同じ時期に同じ絵の具を使って描かれていることだろうか。
少々先走りすぎたようなので話を戻そう。今はまだ鹿苑寺大書院の襖絵の世界に浸っている。
墨絵の場合は当然にキャンバス一杯に絵を描き込むことができない。真っ黒くなってしまうからだ。だから空間が大切で、墨も濃淡の差を使って描いて行く。大胆にも色情報をすべて落としてしまうのだから、画像認識する場合などは扱いにくい。
世界が黒色の濃淡だけしかないならば果てしなくつまらないだろうと思うが、水墨画には別の仮想世界が存在する。禅の精神とはどこかに通ずるものがあるのだろう、目の前にある鹿苑寺大書院の床の間の壁と横の襖を一体として描き込んだ墨絵はそのものが自己主張をしすぎることも無く、絵全体に調和と落ち着きを与えている。
深く安定した呼吸とベータ波が大脳全体を真っ赤にする程の瞑想状態の時にふと目に入った部屋の景色がこのような墨絵ならば、脳波には何の乱れも起こらないような気がする。
つまりそういう脳波の出ている状態の精神世界を墨絵は表しているのだろう。刺激的ではなく害もない。
このような多量な精神性を含んだ墨一色の絵と、この後に現れるふんだんに色を散りばめた色絵の間のギャップには驚くのである。
今回の展覧会の企画者の意図は、墨絵と色絵の差を際立たせる事にあったのではないだろうか。もしそうだとすれば、その作戦は成功したと言えよう。もちろん墨絵の材料として使っている松や葡萄の木や鶏や鶴などのオブジェは色絵の中にも繰り返し現れて来るのだが、それは若沖の色絵の中の骨格として使われているように思われる。
どれほどの時間が経過したであろうか水墨画の部屋から休憩スペースに抜け出した。
それにしても人が多すぎる。絵に近づいたり遠ざかったりしたい、横から押されたくない、本来は不愉快に感じるものだが若神の絵に触れた感動が私の気持ちをおおらかにさせていた。疲れも眠気も感じない。
そして第二の展示室へと移動した。
私ははっとした。一歩踏み込んだ途端に色が弾けて飛び込んでくる。
これは一体なんだ。つい先程まで若神が判った積もりでいたではないか。鹿苑寺大書院の空気の中で落ち着いていたではないか。何か悟ったはずの私の心はこれから起こる出会いにわくわくしている。
やはり芸術は爆発だった。強烈な色の断片があちこちから飛散してくる。
それにしても人が多い。最前列を目指したが前に進まない。こんな群集の中で美術品を鑑賞するのはパリのルーブル美術館でモナリザを見て以来である。
「全然すすまへんなあ」「ほんまになあ」「あんたちょっと大きな声で前の方にいる人たちに先に進むようゆうてや」「いやや、そんな気ないわ、小心もんやもん」「係りの人が誘導せなあかんわ、なあ」すると係員の人の声がした。「前列のかた、後から来られるお客様のために絵の前では長い間立ち止まらないでください。」というもののどうもか弱い。「でもぜんぜん進まへんなあ、さっきからここを動いてへんわ」「ほんまに」「でも一番前まで行こな」「金はろたもんな」「ほんま」
後ろのおばさん達がうるさいために最前列は断念し、二列目で我慢することにしてわずかながらも左に向けて移動する。これでおばさんとはおさらばだ。
ようやく前列の人の頭の間から絵の下の部分が見えた。
鯛や蛸など魚介類の絵を観た。鶴の絵を観た。鶏の絵を観た。孔雀の絵を観た。雀の絵を観た。蛙や蝶や蛇などの絵を観た。松の木の絵を観た。葡萄の木の絵を観た。雪景色の絵を観た。紫陽花の絵を観た。牡丹の絵を観た。もちろん中央に掛けられたこの部屋の主人兼主役の釈迦三尊像も観た。
そういえば人間を描いた絵の記憶が無い。どれもこれも色が弾け飛んでいる。赤、オレンジ、青、緑、白。どれも鮮やかな発色を保っている。
二百五十年も経っているとは思えない、模写したモンではないのかとつい思ってしまう。
酸化もせず紫外線にも変しない絵の具を使っているからか、それともほとんどの時間を皇居三の丸の蔵の中で眠っているからなのか、きわめて鮮烈な色合いで観るものを圧倒す色から来る強烈な印象は作者の個性から来るものなのだろうか。
私には、墨絵で押し留められたエネルギーが溜まりに溜まった結果、一気に噴出した結果のように思われた。
少し目を凝らして見れば鶴の体の白い部分には丹念に羽根が描かれているではないか。その細部は驚くほど精密である。きっと凝り性だったのだろう。また視力も良かったはずだ。
しばし釘付けになる。鶏のトサカがやけに赤いが、この鶏の体と羽と脚の描き方も鶴と同様に精密極まりなく驚嘆させられる。思い返してみれば、私は全てのものをこんなに詳しく観察などしたことがない。因みにある鶏の羽根を数えた所ざっと三百枚ほどあったが、一体これを描くのにはどれほどの長い時間を掛けたことだろうか。。
こんな大量の数の根を一枚一枚丹念に描き進むのはその作業そのものに満足していたからに違いない。。
このように鳥の根を描く手法は若神の独創なのかそれとも誰か先人から学んだのかは知る所ではないが、一枚の根を描く喜びが大切で絵を完成することは積み重ねの結果に過ぎないような気がしてしまう。。
「観て。あの鯛。鱗が見える」「あ、蛸」「あれはエイかな」「みんなこっち向いてる」と言うのは魚が全部左向きだからだ。「あれは蛙だね。おい、オタマジャクシが描いてあるぞ。」と観れば、丸い玉のようなものがいっぱいだ。「あの鶏の眼がかわいいね」何処かで声がする。
墨絵にもあった正面を向いたあれのことだろう。
「あの、一羽だけ白いね。どうしてだろう。」と横から声がする。ホント、どうしてだろう、と思う。「わあ、あの葉っぱ、虫食いの穴から向こっかわが見えてる。」「すごいね」と女性の声がする。誰も同じような所に気が付くんだ、と思う。
先程のおばさんではないが「金はろたから」「元は取らにや損」精神で、それぞれに目の前の作品に見入っている。一つの作品に一分としてこの部屋の三十三本の軸を鑑賞するには三十三分の時間が掛かることになるが、大体これ位の時間が経過したのではなかろうか、人の流れと共に部屋から排出された。
出たところにホステスさんが笑顔で出迎えてくれて、聞けばこの先が出口になるという。
外に出ると五月晴れの空には五月とは思えぬ強烈な陽射しが照り付けていた。
寺の石畳を踏みつつひとまず御所へと足を向けた。だが頭は混乱したままだ。色の残像も強く残っている。私は負けたと思った。
前半は全て受け止められた。まだ余裕を持ってのこしていた。が、後半は最初から度肝を抜かれた。
それからは相手の術中にはまり、ずっとペースを捉まれたまま、今こうして御所に向かっている。だが負けたけれども私にも満足感はあった。
同志社の間を抜ける私道負担道路を通り御所に入り、有栖川宮邸跡の横を過ぎて丸太町近くの叢に腰を下ろした。